努力でもするならば

僕が小学生の頃、当時大学生でサッカーのコーチだったひとに、「努力するなら見えるところでしろ」という話をされたことがあります。お前らの影の努力なんか知らないし、結果だけ見たら駄目なものは駄目としか言えない。それでも頑張りを認めて欲しいんだったら、見えるところでしろ、さもなきゃ俺は大学を辞めて一日中お前らの監視してなきゃならない。みたいな話で、誰に見られていなくても慎ましく努力するのが良いと思っていた純粋な子供にとっては、なかなか刺激的な言葉でした。

印象的な言葉というものはいつまでも覚えているもので、自分が誰かから何か評価される立場になる時、わりとその時のことを思い出します。この話の本質は、裏で努力しても結果が出せなきゃ意味ないぞ、ということではなくて、努力したことに意味があると言うならそれを示せ、ということなのだと思います。あのひとが今どこでなにをしているのか皆目検討つかないですが、とても面白いひとだったなと思います。もう40近いのかと思うと、なんだかなあ、です。

勿論、最終的には結果に繋げないと駄目なんだけれど、技術というのはみんなで器に水を少しずつ足していくようなもので、誰かが挑戦して失敗したことで可能性の器が少しずつ埋まっていって、最終的に溢れ出た物が成功例として世に出回り利用されるのだと思います。最後の一滴を注ぐことと、その土台として失敗することは、本質的には同義であると思うから、それこそ挑戦したことに意味がある。但し、それはそのひとが器に注ぐ水として、過程を他のひとに示した時だけだから、そう、「見えるところでやれ」なのだと、僕は思う。