美学と品質と気持ちの悪い集団

品質というのは、かけられる労力や時間がどのくらいあったかの差であるとも言いますが、どうなんだろう、どうにもそう言った過剰エネルギーを必要とするものは常に、何かの美学に基づいて生まれ出づるものなのではないかと、お客様の中で心当たったりする方はいらっしゃいませんか。

僕は厨二病なので、美学という言葉が好きですが、意識の次元上昇を果たした人たちにとっては、それはビジョンやモチベーションと呼ばれるものかもしれないし、もっと普通に言えば、こだわりというのかもしれないし、職人肌とか、プライドとか、誇りと呼ばれることもあるかもしれません。何にせよ、ひとつの事柄をひとつの言葉で捉えるのは、いつだって危なっかしいことです。つまり、この文節でこれから書くことに対する保険をかけたというわけです。

近頃、社訓のようなものが批判を浴びがちですが、あれ自体本当に悪いものだったのでしょうか。むしろ、あんな言葉が自分の心から出てくるひとがいるとしたら、それは随分立派なひとで、こと品質という点に置いて、信頼して仕事が出来る相手なのではないでしょうか。逆に言えば、全くそう言った志のない人間と仕事しなければならない時があるとしたら、なんだか自分のやっていることに、意味があるんだかないんだか、わからなくなってしまいそうです。

それが外から見てなんだか陳腐で気持ちの悪い集団になってしまう時というのは、美学が誰かに押し付けられた瞬間であると、僕は思います。概念自体は立派なもので、先述の通り仕事において、そういった人間は、大抵の場合は信頼の置ける相手であると思います。「あなたは立派な考えを持ってる。」「みんなあなたのようならいいのに。」そう言われるのではないでしょうか。

でも、そのひとがそれを以ってして何か成功して、「俺を見習え」と言った瞬間、「彼を見習ってる俺たち」という人種が誕生します。それは形を真似するばかりで、彼ら自身は美学を持たない、信頼に値しない人たちです。そのくせ、自分こそ正義の象徴だと勘違いしていて、正常な判断力を持つ人間に対して、「やり始めたら最後までやるのは当たり前のことだろ。お前の都合は関係ない。」みたいな脅迫をし始めるのです。本当に恐ろしいことです。

何が悪いとは言えないのですが、ともかく元々は何か素晴らしいものを生むはずだった美学そのものが悪としてボコボコに殴られているのを見ると、どうやら悲しい気持ちになったりするわけです。「何があってもやり遂げろ」という人間は大抵ゴミクズ野郎ですが、「何があってもやり遂げよう」と自分の中で思えるひとは立派だし、なんだか素敵じゃあないですか。

まあなんか、難しい。長くなっちゃったから、そろそろ、おしまい。